1. ヨーロッパアルプス放浪記(2009年7月2日〜8月22日)

                            米澤 弘夫 記

永谷常和、中尾敏宏、米澤弘夫

  登山者を自認するからには一度はアルプス、ヒマラヤへと思いながらも、その機会が得られぬまま還暦が過ぎてしまった。職場の定年は65歳であるが、それまで勤めると、もはや海外遠征の体力は残っていそうにもない。そこで、63歳をもって早期退職、遅まきながら海外登山を始めることとし、その一歩としてヨーロッパアルプスを目指した。パートナーは私の所属する鹿児島黒稜会のメンバー、永谷(66歳)、中尾(62歳)の二人、どちらも強力なクライマーとは言えず、いささか心細いものの、目標は大チンネ北壁コミチ・ルート、ピッツバディレ北東壁カシン・ルートに定めた。パートナーの登山経験から、氷雪の付いた岩壁は対象とならない。さらに、二人の希望を入れ、マッターホルンの登頂をも試みることになった。7月2日、福岡を発ち、上海にて飛行機を乗り換える。それにしてもミラノまで10時間のフライトはきつかった。

7月3日〜9日 ドロミテ

 まず、ピッツバディレへ向かう予定であったが、交通機関を利用してのアプローチが分からず、ドロミテへ予定を変更する。鉄道の終点でビバークしたりと散々手間取った後、コルチナ・ダンペッツオのキャンプ場にベースとなるテントを設ける。5日、ここから、タクシーにて西チンネの麓に建設されたオーロンソ小屋へ入った。オーロンソ小屋までバスが乗り入れており、小屋と言うよりはホテルと行った方が良いかも知れない。ここから各チンネの取り付きまで1時間足らずで達する。下降路の偵察を兼ね、南面の一般ルート(ザイルを必要とする完全な岩登り)を三人で登った後、8日になって中尾と共にコミチ・ルートへ取り付いた。高度差500mの壁は下半分がオーバーハング、上半分が垂直に切れ落ち、頭上へ倒れかかって来るその迫力に圧倒される。技術的には谷川岳の衝立岩程度か。被った部分を縫う様にうまくラインが取られているから、直接オーバーハングを乗り越す所は出てこない。ルート上の磨かれた石灰岩はフリクションの利きが悪く、一部浮き石もあって意外と登りにくいが、まだ私の登れる範囲内であると思った。しかし、5ピッチ登ったところで中尾が力尽き、ここから下降する。その日の内にコルチナのベースへ引き上げ、次の目標ピッツバディレへ向かう事に決定、10日、いったんミラノへ出る。

 

                  ドライチンネン北面

 

 7月10日〜15日 ピッツバディレ

 行楽地としてにぎわうコモ湖湖畔のキャンプ地にベースを置いた。湖岸ではビキニ姿の女性が群れており、汚い格好をした我ら登山者はけったいな闖入者としか思えない。色々と聞きまくるがピッツバディレを知っている者とてなく、アプローチの偵察だけで1日をロスしてしまった。12日、鉄道でキアベンナへ出、サン・モリッツ行きのバスに乗り込み登山口のボンドへ着く。ここから車道を1.5時間、さらに歩道を1.5時間歩きピッツバディレ北面に建てられたヒューラー・ヒュッテへ入った。周囲はメルヘンビーゼという言葉がぴったり来る美しい景観が広がる。小屋から正面にピッツバディレ北壁が望まれ、景観も抜群。元々の計画では、北東壁カシン・ルートを登るつもりであったが、大チンネ北壁の経験により、北東壁は無理だと判断せざるを得なかった。そこで、急遽、北稜にルートを変更した。北稜はアルプスでも最も快適なカンテラインと評価されている。13日、暗いうちにヒューラー・ヒュッテを出る。北稜取り付きのコルまで2時間ほど、4番目のパーティとして登攀を開始する。露出感、高度感のある快適な岩稜をつるべでどんどん登る。大部分はⅢ級程度であって、技術的には問題ない。数カ所、Ⅳ級の部分が出てくるが、そこは私がトップを務めた。ピンは遠いものの、要所にはペツルタイプのボルトが打ってあり、さらに、確保点にはがっちりと大きなリングが埋めてある。フリクションの利く花崗岩はがちがちに固く、浮き石など全く見あたらない。これ程快適な登攀はかつて経験したことがない。しかし閉口するほど長い。屋久島で22ピッチのルートを登ったことはあるが、はるかに長く、20ピッチくらいまでは数えていたものの、その後はピッチ数が分からなくなった。30ピッチを越えたことは確実である。途中で2カ所、右へ捲く部分が出てくる以外、ほとんどの部分はカンテ通しであり、ルートは分かりやすい。最後の3ピッチほどはほぼ水平に頂稜をたどる。いったん下降し、岩が重なった凹角を抜けると、そこが最高点、モニュメントが立ててあった。登攀時間は10時間ほど、スピーディに行動しなければ明るいうちに下山するのは不可能、私たちは途中で昼食休憩を取ったが、前のパーティは休憩も取らずに一気にピークまで抜けていた。ピークから直接ヒューラー・ヒュッテへ帰る一般ルートは無く、登攀が終わったなら南面にあるジアネッティ・ヒュッテへ下降する事になる。降り口を間違えなければ、南壁に付けられた一般ルートの踏み跡が続いている。しかし、最後の部分が分かりにくく、50mのアプザイレンで雪渓に降りた。1ピッチ、スタッカットで下り、遙かに見えるヒュッテ目がけて雪渓をたどる。夕暮れには十分余裕をもって、ヒュッテにたどり着いた。この日、一人小屋へ残った永谷のために、ヒューラー・ヒュッテの主人がジアネッティ小屋へ電話を入れ、私たちの下山を確認してくれたという。14日早朝、ジアネッティ小屋を発ち、主稜線を越え再びヒューラー・ヒュッテへ向かう。この部分だけで、真砂沢から剣岳を越え劔沢経由で帰ってくる程の行程がある。途中の急峻な雪渓で怖い思いをしたものの、昼前にヒューラー・ヒュッテ着。永谷と合流し、コモ湖のキャンプサイトへ向かう。管理人夫婦の人柄を始め、ヒューラー・ヒュッテの心地よさ、ピッツバディレのルートの素晴らしさには感激した。ぜひもう一度来て、今度は北東壁を登ってみたいと思う。

 

                   ピッツバディレ北面

 

 7月16日〜20日

 マッターホルンを目指し、ツェルマットへ入った。ここは高級リゾート地である。マッターホルンは首が痛くなるほどの高度にその姿を見せる。確かに、アルプス屈指の眺めであろう。ドミトリー(国民宿舎風のホテルで自炊設備付き)に泊まってチャンスを待つが、降雪があったために、取り付けない。その間に、高度順化を兼ねてブライトホルン(4165m)を登る。更に、リュッヘルホルンで9ピッチの岩登りを楽しんだ。しかし、山の状況は好転せず、これ以上粘ってもチャンスは訪れそうにもない。しかたなく、アイガーへ転身する。

 

                   マッターホルン

 

7月21日〜30日

 グリンデルワルトのキャンプ場にテントを張った。しかし、目指す東山稜はべっとりと雪が付いて取り付けない。しかたなく、登山鉄道でユングフラウヨッホへ登ったり、シュバルツホルンの縦走、ハイキングで日にちを過ごす。ヨーロッパへ着いてからいつしか30日、永谷、中尾の帰国の日が来てしまった。私の滞在予定は50日、一人寂しく居残ったが、チャンスは来ず、モンブランへ回る。

                              

                    アイガー北壁

 

 8月1日〜19日

 シャモニーのキャンプ場へ腰を据えた。ここまで来る予定が無かったので、予備知識が何もなく、うかつな行動は取れない。モンブランだけなら危険が無さそうだったので、アタックを試みる。もちろんガイドレス、従って単独行とならざるを得ない。モンブランへ登るルートのうち、最も容易なのは、グーテ小屋(3817m)に一泊し、ここから山頂を往復するものである。これが一般ルートとされる。しかし、グーテ小屋はシーズン中予約で一杯となり、飛び込みは泊まれそうにもないらしい。そうすると、エギュイーユ・ デュ・ミディから縦走し、グーテ小屋へ降りるというコースしか考えられなくなる。出発点となる3842mのエギュイーユ・ デュ・ミディまでは、シャモニーからロープウエイで上がるから、こちらならば、グーテ小屋が宿泊不能でも、そのまま下のテートルース小屋(3167m)へ降りることが可能だし、そこまで行き着けなければ途中でビバークする事も出来るだろう。その他のルートは氷河の上を歩かなければならず、単独では危険が大きすぎる。

 5日、7時半、ロープウエイに乗り込み、一気にミディ駅へ上がった。8時過ぎ、駅を出る。ビバーク用具を入れたザックが重い。天候は快晴、風もほとんど無く、絶好のコンディションと言える。ルートはまず北へ向かうリッジを下り、傾斜が落ちたところで南へ折れ、雪原をたどって行く。トレースはしっかりしているし、前後に10パーティほどいるので、ルートファインディングの問題はない。単独行は私の他に一人。

 一端、3500mのコルへ降り、モンブラン・ド・タキュル(4248m)の右の緩やかな雪面を登るようになる。タキュルの肩を越え少し下ると、モン・モディ(4465m)の登りにかかる。最後の肩に登る部分は60mの急な氷化した雪壁となり、技術的な核心部とされる。もっとも、フィックスがあり、大きなステップが切ってあるから、アイゼンテクニックがしっかりしておれば、単独でも不安は感じない。ここを越えるとモンブランのドーム型をした山頂(4810m)が見えてくる。トラバース気味に安定した雪面をたどるだけだが、この辺りから目立ってペースが落ちた。4500mほどの肩から最後の緩やかな登りにかかる。高度の影響なのか、体力の不足なのか、足が出なくなった。一歩ごとに数呼吸をしなければならなくなり、一向に頂上が近くならない。これほどきつい思いをしたのは始めてかもしれない。やっとの思いで山頂着。すでに16時、随分時間を食ったものだ。

 頂上は稜線をなし広い場所ではない。10分ほど休み、リッジ状の部分を下る。ベロ避難小屋(4362m)の前を過ぎて一端、広いコルへ降りる。疲労しきった身体には、ここからグーテピーク(4304m)までの少しの登りがきつい。19時、完バテの状態でグーテ小屋着。

 小屋は登山者で溢れ、宿泊出来るかどうか、不安であったものの、OKが出た。ただし、食堂に数十人が雑魚寝、余りの混雑に恐れを成し、荷物置き場のザックの間で横になる。翌8月6日、6時過ぎ、小屋を発ち、簡単な岩場を下る。踏み跡ははっきりしており、ずっとワイヤーが張ってあるから、どうと言うこともない。1時間ほどでテートルース小屋へ着く。ここからは一般の登山路、ニ・デーグルの駅(2372m)めざしてただ黙々と歩くだけ。かろうじて9時の始発電車に間に合った。

                 モンブランを望む

 

 この後は、何もすることが無く、モンタンベールへ出かけ、ドリュ、憧れのグランドジョラスを眺めたりして無為の内に日々を過ごした。19日にシャモニーを発ち、ミラノへ帰る。21日にミラノ発、上海で乗り継ぎ、22日に福岡へ帰り着いた。

 

    前ページに戻る