4. 九州大学山岳会・ヒマラヤ・タサルツェ遠征(2011年9月15日〜  10月15日)

                             米澤 弘夫 記  

中溝幸夫、中川原捷洋、本田 忠、竹下朝日(現役)、米澤弘夫    

 ダウラギリⅤ峰遠征をドロップアウトしてから40年、やっとヒマラヤ登山の機会に恵まれた。目標は、ダウラギリ山群の未登峰タサルツェとタシカン北峰。いずれも6400m程度の高度ながら、名前が付いている未登のピークはもう少ないそうだ。しかし、66歳という年齢は、いかにもつらい。せめて、40代であればと痛切に思う。タサルツェ遠征の一ヶ月前、7月から8月にかけて、中国横断山脈へ出かけた。高度5000メートル近くでのビバーク3回を含め、15日間、4000メートル以上に滞在したため、身体への負担が大きく、5キロ体重が減り、それが回復しないうちにヒマラヤ出発の日が来てしまった。従って、高度順応には自信があったものの、体力面では不安を抱えながらの出発であった。
 9月15日、福岡空港を発った。順調に飛行機を乗り継ぎ、ジョモソン着、キャラバン出発点のマルファ入りを果たす。いよいよ、ヒマラヤのまっただ中、カリガンダキを隔ててそびえ立つ、ニルギリの姿に圧倒される。ここで、「サーブ、ティー」の初体験、シェルパに対するイギリス人の扱いを伺い知ることが出来た。私たち日本人は、シェルパを対等なパートナーとして考えるが、イギリス人達は、全くの召使いと考えていたのだろう。他人から世話を焼いてもらう事など無い私にとって、何となく、尻の落ち着きが悪い。
 9月19日、キャラバンが始まると、高度の影響はどの程度の物なのか、体力は回復しているのかと、ダンプスパスを越えるのが気にかかる。高度5000メートルに近いダンプスパス手前のキャンプ地までくると、飯が食えなくなってくる。腹を壊しては動けなくなるので、腹3部くらいで止め、下痢止めを服用する。ヒドゥンバレーキャンプ地で雪に降られたものの、それほどの事も無く9月25日、ベースへ入った。

  

                       タサルツェ

 この高度までくると、私には、連日の行動は無理で、1日動いたら次の1日は休養をしなければならな い。後のことを考え、とにかく無理をしない事に努める。ルートはタシカンⅠ 峰(6386m)を越えていく事に決定した。9月28日、シェルパがルート工作に出て行った。一方、私はベースでごろごろ、こんなんで良いのだろうか。
 9月29日、C1へ上がる日が来た。ひたすら雪面を歩く。6000メートルまでも達していないのに、とにかくきつい。気は焦れども、足が前に出ない。疲れ切ってC1へ入った。ここで、サーダーから、タシカンを越えて先へ下るのは無理だとの報告を受けた。これでは、目的を達する可能性が無くなってしまう。とにかく、タシカンまで登らなくては、気が済まないし、先の見通しを付けることも出来ない。
 翌30日、タシカンへ向けて出発する。真っ暗だが、フィックスロープが張り詰めてあるので、それにすがって雪面をただ歩くだけ、傾斜も緩く技術的困難さは全くない。日本で言えば、遠見尾根を登る感じだろう。技術的には早月尾根の方が、遙かに困難である。しかし、息が切れて、身体が動かない。ペースを落とせば楽になるかと思ったが、一向に楽にならなかった。喘ぎ喘ぎ、フィックスロープをたどる。狭い山頂に着いたときには、体力を絞りきったという感じだった。
 ここから見る、タシカン北峰、タサルツェは雪面をたどるだけで、登頂出来そうに思われる。北峰とのコルにテントを出せば、両方とも、単に体力の問題だけであろう。しかし、サーダーの判断では、コルへ向かって下る斜面が不安定であり、雪崩の危険性が大きいと言う。日本の冬山の感覚だと、ためらう事無く下る感じだが、ここはヒマラヤ、日本での経験が簡単に通用する所では無い。確かに、ピッケルを突き刺すと、手応え無く根元まで入っていく。隊長とサーダーとの話し合いの結果、ここから引き返すことになった。

 

                 タシカンⅠ 峰にて

 

        

                タシカンⅠ 峰よりのタシカン北峰

 

 下りは楽だ。C1で荷物をまとめ、一気にBCまで下った。これで、今回のヒマラヤ遠征の登山活動は終了、私にとって、実質的活動期間は、この二日のみとなってしまった。最後に、タシカンⅢ峰の登頂が計画されたが、私の体力では、ベースからの1日での往復は無理だと判断し、参加しなかった。現役の竹下君が登頂を成し遂げたのは、若さの勝利である。
 今回の遠征に参加して、私の持っていたヒマラヤ登山のイメージが、現実の物とはずいぶん違っているのを実感した。私たちの隊が、年長者によって構成されていた事より、全てシェルパにお膳立てを整えてもらい、その後をついて登るという結果になったのは、仕方の無い面があろう。こうなると、日本での積雪期登攀の経験など、意味を成さなくなってくる。特別困難なルートを目指すのでは無く、ただ、ピークに立つだけならば、歩き続ける体力のみが問題となる時代に入ったのだろうと思う。今はやりの公募隊の内容は、その様な物ではないのだろうか。
 身体が動く若い時は暇と金が無い、暇と金が出来た時には体力が無い、つくづく、ヒマラヤは私たち一般人にとって、遙かな世界だと痛感した。しかし、今回の遠征で、間近にダウラギリ、アンナプルナ、さらに飛行機からであったが、マナスルとジャイアンツの雄大な姿を見ることが出来た。これだけでも、登山者冥利につきると言うべきだ。一生に一度と言うべきこの様な機会を与えてくれた、隊の仲間、九大山岳会の諸兄に深く感謝する。

 

                   ダウラギリⅠ 峰

 

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